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−死を呼ぶ邂逅(4)−

 屋敷というに相応しいほどの広さを誇る、少々古めかしい木造の住居。そこが比田圭吾の生家だった。
 かつてこの旧家を築いた主の趣味が良かったのか、玉砂利を敷き詰めた広く美しい日本庭園が屋敷をぐるりと囲っている様は、とても優雅で趣が感じられる。青々とした針葉を大きく広げる松の木の横、ひょうたん型の人工池には紅白の錦鯉が放たれており、時折水面から飛び上がって小さな羽虫に食らいつく姿が見られた。流水と鹿威しが奏でるメロディーは単調ながらも深みがあり、耳を済ませていれば雑念全てが洗い流されて心が澄まされていくような感覚にとらわれる。
 穏やか。そう一言で表現してしまっても全く違和感の無い空間。だが付近一帯の誰もがまだ目を覚まさないような朝早く、毎日そこは殺伐とした空気に包まれることとなる。
 障子戸を開いて、口元に白い髭をたくわえた一人の老人が縁側から庭に下りる。圭吾の祖父である。渋い色の着物に身を包んだ彼は歳のわりにがっしりとした身体つきをしている。
 腰に携えられているのは、刃渡り七十センチ以上はあろうかという真剣。そう、圭吾の祖父は剣道の師範であると同時に、居合いの達人でもあった。そして毎朝早くに起きては庭に出て、刀を手に素振りをするというのが日課だった。彼曰くそれは一人稽古であり、または健康のための体操みたいなものでもある、とのこと。
 まだ幼かった頃の圭吾はある日、いつもよりも早く目を覚ましてしまい、何気なく縁側を歩いていた。そのとき初めて祖父の一人稽古を目にすることとなった。
 額に汗を光らせながら、重く鋭い刃を振るうたくましい姿。その素早さ、力強さ、美しさ、すべてに圭吾は心奪われてしまった。そしてこのときの一件こそ、圭吾が剣の道を歩み始め、祖父の背中を追い続けることとなるきっかけだった。
 剣道家の下に生まれた以上、いずれは屋敷の裏に建てられた道場に入ることになると、初めから進む道を決められていた圭吾。親たちによってレールを敷かれたせいで、自分の意思で進むべき道を選べないというのは、ある意味では不幸なことだと言えるであろう。しかし両親が思っていた以上に剣の道というものにのめり込んでしまった圭吾にとっては、むしろ好都合なことであった。
 自分が剣道を始めたいと言えば、大人たちは皆一様に喜んで剣を握らせてくれる。それがまだ幼稚園に通っているような幼い頃であっても。一般の家庭なら我が子が怪我をするのを恐れ、握った竹刀を奪い取るくらいするかもしれない。だが、比田の一家にはそれが無かった。剣の道に関わりを持たない母ですら、長年父に連れ添ってきたためか、一族独自の感覚に完全に毒されていたのだった。
 結局、圭吾は小学校に入るよりも前に、祖父の道場に入門することとなった。まだ五歳になったばかりの頃だった。
 道場には他にも幾人かの子供たちが通っていたが、圭吾はその頃最年少。十分に発育されていない身体はまだとても小さく、筋力もあまり無かったため、子供用の小さな竹刀すらも容易には振り回すことができず、誰よりもぎこちない動きをしていた。
 しかし時間が経つとともに、彼は急激に成長した。一心不乱に稽古に励み続けているうちに、身体がコツを覚えていき、また成長期を迎えると背丈が伸びて筋肉もついた。さらに祖父から受け継がれてきた才能も手伝ったのだろう。彼は自分より年上の者を次々と追い抜いていき、いつしか道場の頂点に立てるほどの実力者にまでなっていた。
 山を駆け上っていくような感覚。常に高みを目指し続けている者なら、それを爽快に思わないはずが無いだろう。だが圭吾の心はまだ晴れていなかった。自分が実力をつけていくごとに祖父の凄さがだんだんと浮き彫りになってきて、追い続けてきた背中がさらに遠のいていくように感じたのだった。
 いったい自分と祖父の間には、どれほどの距離があるのだろうか。
 彼はその疑問を解消させるべく、中学二年のある日に決闘を申し込んだ。祖父はいつも圭吾に剣の指導をしてくれてはいたが、真剣に竹刀を交えてくれたことはまだ無かった。それはたぶん、孫の力はまだまだ幼いものだと分かっていたからだろう。たかが十年剣を振り回してきただけの男に、その何倍もの経験を持つ自分が本気を出す必要は無いのだ、と祖父は思っていたに違いなかった。でも祖父は優しかった。圭吾の思いが本気であると知るや否や、決闘を快く承諾してくれたのだった。

 稽古が終わり、生徒たちが全員帰った後、二人は道場で初めて本気で竹刀を交えた。勝ったのは意外にも圭吾のほうだった。
「強くなったな」
 竹刀で打たれたばかりの面を持ち上げながら、祖父はあっさりとそう言った。感慨に浸っている様子が表情から見て取れた。
「違う!」
 圭吾は大きく勢いをつけて頭を振った。全く勝利した気分になれなかった。
「確かに俺は試合に勝った。しかし、技術的には圧倒的に劣っていた」
 そう、祖父の技術はあまりに見事すぎた。いくら歳をとったとはいっても、身体の感覚で覚えていた技術は失われることなく、それどころか、さらに磨きがかかっていたようにすら思える。ただしそれとは反対に、身体の衰えは見るに耐えないほどだった。あたりまえだ。祖父はすでに八十をこえているのだから。
 だが、その高齢の男は、今最も勢いのある若かりし剣士とほぼ対等に渡り合って見せた。圭吾は力で相手の攻防を封じ、渾身の一発を決めてなんとか勝利を手にすることができたが、もしも祖父の身体が衰えていなかったら――圭吾が勝てたはずが無かった。
 時空を超えて伝わってくる、圧倒的な力の差。
 彼は悟った。自分はまだ祖父と肩を並べられるほどのレベルに到ってはいない。それどころか、力を持ち備えていた頃の祖父が相手では、自分は足元にも及ばなかっただろう、と。
 俺はまだまだ弱い。
 悔しさのあまり歯を強くかみ締めた。
「圭吾」
 祖父は防具を脱ぎ終えると、静かにゆっくりと歩み寄ってきた。
「お前はもう十分に強い。それなのに、どうして勝利に納得することができない?」
 祖父の言葉に圭吾は何も反応できなかった。自分の未熟さに嫌気がさして、憎らしくすら思っていた。
「なぜお前はそうも強さを求める?」
「なぜ、って……」
 そんなこと、考えたことも無い。ただ、とてつもなく大きく感じた祖父の勇姿にあこがれて、自分もそうなりたいと思い続けてきただけだ。
「何かを成し遂げたいという野望があるのか。それとも絶対に守りたいというものでもあるのか。何らかの目的があるのではないか」
「いや、……無い」
「そうか」
 小さく頭を上下に振って、一度静かに目を閉じる祖父。
「圭吾。強くなりたいなら、なにか大いなる目的を見つけるがいい」
「目的?」
「そうだ。今のお前はただ単純に力を追い求めているだけ。だがそれでは、いつか己の力に少しでも満足してしまった瞬間、すべての成長が止まってしまう。力を持たなければならない目的がありさえすれば、それのためにいつまでも腕を磨くことを忘れなくなる。そしてその目的が大きくなればなるほど、お前はより強大な力を欲するようになる」
「つまり、今の俺がさらに力をつけるためには、今考えているものとは別の野心が必要だというのか」
「そうだ」
 祖父は小さく頷きながら何かを圭吾に手渡してきた。鞘に収まった、祖父愛用の真剣だった。
「これは……?」
「衰えていたとはいえ、このワシに勝ったんだ。ワシから圭吾へのプレゼントだ。戦利品として素直に受け取るといい」
「そんな。俺はそんなつもりで勝負を挑んだわけじゃない」
 圭吾は刀を押し返そうとしたが、祖父は無理やり手に握らせてきた。
「気にするでない。ワシはもう剣は引退するんだから」
「引退って、急にどうして?」
 驚きの顔を浮かべる圭吾を見つつ、祖父は笑った。
「頼りになる後継者、そして、この刀を持つにふさわしい人物を目の前に見つけたから、かな」

 それから数ヵ月後、あれだけ元気だった祖父が亡くなった。あまりに突然のことだった。
 祖父の死により、道場の先行きが懸念されたが、以前から祖父の下で手伝いをしていた父親がそのまま師範を引き継いだため、なんとか以前の雰囲気を崩すことなく道場は続けられていった。

 ある朝、圭吾はなぜかいつもよりも早く目覚めてしまった。そのとき、部屋の隅に大切に置いてあった祖父の真剣にふと目がいった。
 布団から這い出て何気なく柄を掴む。そして鞘から刀を引き抜くと、銀色に輝く鋭い刃がすぐ目の前に姿を現した。その途端、なんとも言い知れぬ不思議な感覚に包まれた。
 圭吾はなぜか刀を持って部屋を出て、庭の真ん中へと歩いていく。そして、かつて祖父がやっていたように、力いっぱいに刃を振った。
「分かったよ。俺、強くなる目的を探してみる。そして、衰えていなかった頃のあんたを、いつか必ず凌いでみせる」
 その日以来、圭吾は早朝の一人稽古を欠かしたことは一度たりとも無かった。


 千秋たちと別れてから、圭吾は木の陰に身を潜ませて、追っ手が姿を現すのをじっと待った。こちらの装備は紅月とデザートイーグル。戦いに備えての準備はすでに万端だ。とはいっても、こちらに向かってきている人物というのが敵なのか味方なのか、まだ全く把握できていないのだが。
 味方なのなら問題ない。いつでも好きなタイミングで来てくださいといった感じだ。
 敵だったら、できる限りゆっくりと向かってきて欲しいところ。千秋達を遠くに行かせるために、今は時間を稼がなくてはならないのだ。
 念のために、いつでも発砲できるようデザートイーグルを早いうちから構えておく。いきなり接近戦になることは考えにくいので、紅月はまだ鞘の中に納めたまま。
 息を殺しているせいだろうか。とても静かだ。しとしとと降る小雨の音は聞こえてくるが、それ以外に雑音なんて全く無い。
 じつにありがたい。心を乱す音が無いと精神を集中させやすい。
 耳を済ませてしばらくすると、どこからかザッザッと草葉を踏み潰すような音がかすかに聞こえてきた。そしてそれは次第に圭吾のほうへと近づいてくる。足跡を辿りながら向かってきていた誰かが、ついに圭吾からそう遠くないところにまでやってきたのだった。
 デザートイーグルを握る手に自然と力が入る。
 はたして、相手は敵か、味方か。確認するべく木の裏から相手のほうを覗き見ようとした瞬間、近づいてきていた足音がピタリと止まった。
「ずっと待ち伏せていたのかしら?」
 ドクンッ。
 なぜだか胸が一度大きく高鳴った。品があっておとなしそうな口調でありながら、なにかしらの迫力が感じられる声。
 圭吾は確信した。自分達を追ってきていた人物とは御影霞(女子二十番)であったのだ、と。

【残り 六人】
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