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−天に羽撃くとき(1)−

 五キロの錘を抱えての山歩きは本当に辛かった。手ぶらの時よりも身体の動きが鈍くなっているせいで、目的地に到着するまでに時間が余計に長くかかってしまうのだ。山代総合病院と農家の間の往復で、道筋の分からなかった行きですら二時間とかからなかったのに、帰り道では既に三時間以上も費やしてしまっている。
 本来の体重に硝酸アンモニウムの重さが加算されたせいで、歩くごとに足が泥の中に深く埋もれていく。それをいちいち引き上げなければならないというのは疲れるし、非常に面倒であった。
「なるべくぬかるみの中は歩くな」
 と前を歩く比田圭吾(男子十七番)に注意されるが、長い間降り続いた雨のせいで土の地面は何処もかしこもドロドロになっており、ぬかるんでいない場所なんてほとんど無かった。よく見ると、注意した本人だって、ぬかるみに足を取られながら歩いている。
 後方からの視線を感じたのか、圭吾は歩きながらぐるりと頭だけ振り返った。
「俺はいいんだよ。多少足を取られたところでお前みたいに体力を大きく消耗したりはしない。ただお前が辛そうに歩いていたからアドバイスしただけだ」
「あたし何も言って無いでしょ」
「目が言っていた。他人のことばっかり注意しておいて、自分だって同じことをしているじゃないか。と」
 そう言われると、春日千秋(女子三番)は何も返すことが出来ず、ぐっと黙るしかなかった。にわかに思い浮かべていた考えを瞬時に読み取られてしまい、驚きのあまり次の言葉が浮かんでこなくなってしまったのだった。
 あたし、そんなに分かりやすい顔してたのかな。
 悠々と歩く圭吾の背中に首を捻りながら目を向ける。千秋の倍の十キロもの硝酸アンモニウムを抱えているというのに、一向に歩くペースが落ちてこない。もしかして彼、これだけ移動を続けてもまだほとんど疲れを感じていないのではないだろうか。
 奴は本当に人間か?
 千秋は思った。もしかして彼は宇宙からやってきた戦闘民族の子孫かなにかで、地球程度の重力の中では疲労することなんて無いのではないか、と。そんな漫画みたいな話ありえないと、すぐに自ら否定したが。
「まあ、もうすぐでゴールに到着するから頑張れ」
 レーダーの表示に目を向けながら、圭吾が千秋にそう伝えた。しかし山の中はいくら歩いても周囲の景色がほとんど変わらず、本当に山代総合病院に近づいているのかどうか分からない。
「あっちを見ろ」
 指差す圭吾の動きにつられて、千秋は遥か前方へと目を向けなおした。すると密集する木々の僅かな隙間から、病院の建物の屋根が、微かにだが確かに見えた。
「やった。これでようやくこの重労働から解放されるのね」
 ゴールが目前に迫っていると分かると、もうほとんど残されていないと思っていた体力が、どこかからか湧き上がってきた気がした。早く病院へと辿り着いて羽村真緒(女子十四番)に会いたい、という気持ちが、千秋の背中を前へと押してくれたのだった。
 さらに進むと病院の建物は、より鮮明に見えてきた。薄汚れたコンクリートの外壁が、雨の中でその輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。
 病院の敷地に入ってすぐ、圭吾は再びレーダーの表示へと目を落とし、何度か拡大縮小を繰り返して、付近に誰か潜んでいないか慎重に確認した。結果、このエリア内には四人分の反応しかないと分かった。ここにいる千秋と圭吾。病院内にいる真緒と蓮木風花(女子十三番)。合わせてちょうど四人。
「心配する必要は無かったようだな」
 周囲に誰も潜んでいないと分かると、千秋と圭吾は病院前の駐車場の真ん中を堂々と突っ切った。そしてそのまま建物の裏手へと入っていく。出入りの為にガラスを割ったICU集中治療室の窓が、裏庭の茂みの陰に隠れている。そこから中に入り込むつもりだった。
 菜園の側を通り過ぎようとした時、圭吾が突然足を止めた。
「どうしたの? 早く中に入ろうよ」
 千秋は前の圭吾に話しかける。早く真緒と再会したいし、雨からも逃れたいと思っていた。
「春日、見ろ。窓が開いている」
「えっ」
 圭吾の横に並んで窓の方を見ると、確かに出発時に締め切ったはずのガラスが、今は大きく開け放たれていた。
「ちょっとこれ、どういうこと?」
 背の高い圭吾の顔を千秋は見上げる。彼は「分からない。が、何か嫌な予感がする」と言い、ブラウンカラーの眼鏡の下で眉間に少ししわを寄せた。
 千秋は居ても立ってもいられなくなって、すぐに割れた窓へと駆け寄って、建物の中へと飛び込んだ。「おい、待て」と千秋を呼び止めようとする声が後方から聞こえた気がしたが、構わずそのままICU集中治療室を抜ける。暗闇の中、真っ直ぐに伸びる廊下を駆けた。広い建物の内側全体に千秋のバタバタという派手な足音が大きく反響した。
 真緒たちはまだ三階にいるはず。硝酸アンモニウムの袋を小脇に抱えたまま階段を一段飛ばしで勢いよく登った。最後の一段を踏んだ瞬間、泥まみれの足が滑って派手にすっ転んでしまったが、痛みに構わずすぐに立ち上がり、再び走り出す。
 真緒、大丈夫だよね! もう一度無事に再会するって約束したから、あたしはここに帰ってきたんだよ! だから真緒も元気に笑顔で迎えてよね!
 仲間達が待っているはずの病室に辿り着くや否や、千秋はノックもせずに扉を開いた。その瞬間、室内に充満していた噎せ返るような悪臭が廊下へと漏れ、鼻腔から嗅覚器へと流れ込んできた。すぐに血の臭いだと分かった。
「真緒!」
 部屋の奥に見える人影に向かって千秋は呼びかける。するとすぐに女性の声が返ってきた。
「春日……さん?」
 聞き覚えのあるその声は蓮木風花のものだった。彼女は千秋の方をゆっくりと振り向く。その側では真緒がベッドの上で横になっているのか、布団のふくらみが微かに動いているようだった。
 よかった。もしかして誰かに襲われたのかと思ってしまったけど、二人とも無事だったんだ。
 安心して部屋の中に足を踏み入れようとしたその時、くるぶしの辺りに何かが触れた。床へと目を落とした途端、千秋は「ひっ」と小さく声をあげる。頭部から物凄い量の血を流す男の死体が、上からシーツを被せられただけの状態で転がっていたからだ。顔を見てすぐ小倉光彦だと分かった。
「蓮木さん。い、いったいここで何があったの?」
 千秋は少し怯えながらも風花の側へと近寄ろうとした。が、足の裏に正体不明の違和感を覚え、身を震わせながら立ち止まる。なんだか床がぬるぬるしているようだった。
 恐る恐る視線をゆっくりと下げていく。
「こ……これは」
 言葉を失ってしまった。風花が座るステンレスチェアーの真下を中心に、床の上一面に血と思われる赤い液体が飛び散っていたのだ。
 どういうわけかベッドの脇にはスチール製の支柱が倒れている。また、床の上に落ちた輸血用の血液パックが、四方八方へとぶちまけた中身で赤い放射線を描いていた。トマトが地面に叩きつけられて潰れる様子を思わせる光景だった。
 風花はここで何があったか、一向に説明しようとしない。押し黙ったまま微かに身体を震わせるだけだった。横から覗き込むと、彼女の顔からはかなり血の気が失せているように思われた。
「ねえ蓮木さん、どうしたの? 大丈夫?」
 千秋は風花の肩に手を置いて優しく揺さぶる。するとその時、突然風花とは別の女性の声が耳に入ってきた。
「ち……あき……?」
 空気中に消え入ってしまいそうなほど弱々しいその声の主は、ベッドの上で横たわっている真緒だった。

【残り 十人】
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