135
−蝕まれる陰樹(1)−

 頬を伝う雨の滴が冷たい。
 土屋怜二(男子十二番)は青山の傾斜を駆け上りながら、肌に貼り付く長髪に指を通して、乱れを簡単にだが整え直した。
 雨が振っているのを気にもせず動き続けていた彼は、もう全身ずぶ濡れであった。髪も衣服も水分を多く含んで重くなり、今や怜二が走るのの妨げとなってきている。ほとんど泥沼と化していた水溜りの中に何度も足を踏み入れてしまったせいで、皮製の靴もズボンの裾ももう、汚れに汚れて黄土色に変色してしまっていた。
 身なりにはそこそこ気を遣う怜二は、普段ならこんな状態を目にするや、すぐに野外での活動は中断し、汚れた衣類に染みがつかないよう洗濯しに行きたいと思うところだろうが、今はそんなことを気にしている余裕なんて全く無かった。一秒でも早く御影霞(女子二十番)を探し出して、彼女の暴走を止めさせなければならない、という思いで頭の中がいっぱいだったから。
 御影、お前はいったい今何処にいるんだ……。
 まさか今この瞬間にもクラスメートを手にかけているのではないか、と嫌な予感が脳裏をよぎる。
 深夜零時の放送にて名を挙げられた死者は三人。叶昌子。坂本達郎。そしてかつて怜二の前に現れ、襲い掛かってきた安藤幸平。それまでの放送で呼ばれた死者の数と比べて、前回は最も少ない人数となっていたが、それでもこの内の一人くらいは、もしかすると霞に殺されてしまったのではないかと思えてならない。
 怜二はプログラムが始まってからは、一度たりとも霞と直接会えていない。しかし、出発前の分校の教室内にて見た、なにやらただならぬ雰囲気を放っていた彼女の姿を思い浮かべながら、武田渉から聞いた話などを念頭において考えているうちに、だんだんと霞が内に秘めていた思想というものがなんとなくだが読めてきた。そして確信したのであった。このまま放っておけば、霞は級友達を殺し尽くさない限りは暴走を止めはしないだろう。そして、そんな彼女を静めることができるのは自分しかいない、と。
 そう、比田圭吾や、もう死んでしまった磐田猛であっても、力を使わず穏便に霞を抑えることなんて不可能なのだ。二人は確かに怜二と同じく霞を火事から救った恩人であるが、意識をほとんど失っていた中で助けられた霞の方はそれを知らないはず。事件当時は次々と重傷者が救急車へと運び込まれていたし、誰が誰を助けたかなんか病院側も把握していなかったくらいだ。
 霞は近づく者を全て仇と見なし、話をする暇も無く襲い掛かってくるかもしれない(怜二の知るところではなかったが、猛が霞に問答無用で殺されてしまったのは、まさにそのためだった。つまり、怜二の考えは実は正しかったということになる)。
 だが男三人の中で怜二だけは違った。彼は恩人達の中で唯一、霞の怒りを静めることができるかもしれない、ある『鍵』を握っているのである。
 そう、霞を宥めるという大役は、この俺にしかできないんだ。今もまだ生き続けてくれている圭吾だって、力で霞を抑えることは出来るかもしれないけれど、怒りの矛先が間違った方向を向いていると、彼女に気付かせることは難しいだろう。もし力だけで事を済ませてしまっては、霞の身が滅びても怒りは永遠に静まらないままだ。それはあまりに悲しすぎる。
 だから怜二は走り続けた。とにかく早く霞と会って、堅く施錠されてしまっている彼女の心を開き、そして手遅れになる前に真相を知ってもらいたいと思いながら。
 堅い表皮に黒ずんだ苔を貼り付けた樹木たちが、お互いのパーソナルスペースを守るかのように、ほぼ一定の間隔を空けながら立ち並んでいる。その合間をすり抜けることは、ショッピング街で人ごみを掻き分けて進むのと少しだけ似ていた。
 しばらくすると、怜二の目の前に崖が現れた。高台となっているそこは見通しが良く、周囲の様子を探るにはまさにうってつけの場所だった。そもため一度足を止めて、絶壁の下に広がる樹林の方を、目を凝らして見てみることにする。暗さのせいで、いくら見通しの良い場所とはいっても簡単には人の姿を見つけ出すことはできなかったが、それでも怜二は諦めず続けた。
 崖の下と上では繁栄している木々の種は多少異なっているようで、一見しただけでも趣の違いが感じられた。背の高い幹は上半身で枝と葉を広げて、他者の領域をも自分色に侵食しようとしている。多くの光を取り込むためにより良い場所を陣取る者がいれば、逆に日の当たらない場所で長い日々を過ごさなくてはならない者も存在する。人間社会の様とよく似ていた。
 暗い世界で生き続けなければならない陰樹はきっと、陽光を我が物にしてのうのうと暮らす陽樹たちのことを恨めしげに見上げているに違いない。怜二はぼんやりとそんなことを思った。
 すると少しして、風を受けてざわめいている木々の下で何かが動いているのが見えた。怜二に背を向けるようにして人が歩いていたのだった。
 御影!
 遠目だったが、怜二はその人物こそ、探し続けていた御影霞であると確信した。包帯ずくめの全身は、正体を特定するための大きな手がかりとなったのだった。
 すぐさま崖の外をまわって、霞がいた場所を目指して斜面を駆け下りる。勢い余って何度か転びそうになったが、前に踏み出す足に力を込めてなんとかギリギリのところで踏ん張った。しかしそんな頑張りも虚しく、彼が下に着いたときにはもう、そこには誰の姿も無かった。大きく回り道するのに時間をかけすぎたのだった。
 御影、お前はまだクラスメートを殺し続けるつもりなのか……?
 怜二は崖の上から一瞬だけ見えた彼女の姿を思い返す。姿勢を低くして身を潜めながらも、周囲の様子に注意を払いながら、活動的に移動し続ける。それは獲物を求めて密林の中を動き回る肉食獣か何かのようだった。
 なんにしろ、彼女はまだここからそう遠くには行っていないはず。
 霞がどの方角に進んでいったのかは、正確には分からない。しかしそんなことを言って捜索を諦めるわけにはいかない。
 この暗い森林の中、怜二は自らの勘だけを頼りに霞探しを続行することにした。

【残り 十一人】
←戻る メニュー 進む→
トップに戻る



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送