全ての窓が締め切られている建物内には風が吹き込むこともなく、全くといって良いほど辺りの空気は静まり返っている。
誰もいない夜の病院は、何とも喩え難い独特の雰囲気を漂わせており、自らの呼吸によって空気が僅かに乱れただけでも、敏感な肌がそれを感じ取るとなんだか背筋がゾクゾクとした。
風花は病室から出るとすぐに薄暗い廊下の端へと寄って、ひんやりと冷たい壁に力なく手をついた。
「ふぅ……」
激しい運動をした後でもないのに、なぜか身体がふらふらする。大量の血液を体内から抜いてしまった為に、血圧が急激に低下しているのだ。手足の先が妙に冷たい。おそらく目に見えて分かるほど顔色も悪くなっているに違いない。しかし建物の中全体が暗かったおかげで、真緒にはそのことに気付かれずに済んだようだ。
風花は少し前から自らの体調の異変を感じてはいたが、真緒の輸血に問題が発生しないかどうか見届けてからでないと病室から出ることも出来なかった。はっきり言って、真緒の容態を看ながら、身体の異常を悟られないよう平静を装って会話し続けていた五分間は、結構辛いものがあった。
五分過ぎるや否や、風花はすぐに真緒の目の届かぬ所へ逃れたいという一心で、用も無いのに急いで廊下へと出てきた。もし真緒が、血を抜いたせいで風花が体調不良を起こしてしまった、なんて知れば、「自分のせいだ」と余計な罪悪感を抱いて一人で悩み始めてしまうに違いないから。
風花はなんとか体調不良を隠し通した自分を、素直に褒めてやりたいと思った。
さて、これからどうするべきか……。
身体の調子が安定するのを待ってから戻るにしても、何をしに病室から出て行ったのか、後できっと真緒に尋ねられるだろう。しかし、本当のことなんてとても言えない。
風花は何か上手い言い訳は無いかと考えた。その結果浮かんだのが、喉が渇いたから厨房に水を飲みに行っていた、という実に単純で捻りの無い話であった。頭が少しぼんやりとしているせいか、複雑なことなんて全く考えつかなかったのだった。しかし至極単純な話ではあるが、とくに違和感は感じられない。そのため、風花はこの際その言い訳を採用してしまおうと考えた。体調が優れないのにこれ以上頭を使いたくはなかったのだった。
さて、そうと決まればやらなければならないことがある。それは言い訳の通り実際に厨房へと行って、一口でも水を飲んだという既成事実を作っておくということ。真緒の目の届かないところで動いても無駄なように思えるが、嘘をばれ難くするためには、ほんの少しだけでも事実を混ぜておいたほうが良いのである。そして水の入ったペットボトルの一本でも持ち帰れば、話の信憑性が少しは高まるかもしれない。
なんだかいっぱいいっぱいね。私らしくない……。
多少引っかかりを覚えるものの、風花はそのまま厨房へと向かうことにした。電気やガスと同様に止められてしまっている水は、プログラムの最中ではとても貴重なものであるが、病院の厨房ともなればかなりの量が蓄えられているはず。自分の目で確認したわけではないが、以前春日千秋(女子三番)がこの建物内で料理をしていたし、間違いないだろう。
短時間とはいえ真緒を一人にしてしまうのは少し心配だが、もし病院に侵入してくる者がいたとしても、同じような扉が数多く並んでいるこの広い建物の中、そう簡単に彼女のいる病室に辿り着かれたりはしないはず。
廊下をしばらく真っ直ぐに進むと、突き当たりにエレベーターホールと階段の姿が薄っすらと見えてきた。ここから一階へと下りて、またさらに廊下を歩けば厨房へと辿り着くはず、と風花の頭は記憶している。
階段……か……。
廊下を歩くだけでも辛いのに、このふらついた身体で階段の上り下りまでしなければならないのかと思うと、ほんの少し憂鬱だった。しかしエレベーターは動かないのだし、仕方が無い。脇の手すりをしっかりと掴みながら、風花は一段一段ゆっくりと下っていった。
一階に着くと、まず目に飛び込んできたのは総合受付フロアだった。真ん中ですっぱりと切られたモップの柄が床に転がっていたり、きれいに並べられていたはずの椅子が少しずれていたりと、かつて千秋と圭吾が一戦交えた形跡がそのままに残されている。しかし風花はそんなものには目もくれない。
廊下を歩いている途中、微かに空気の乱れを感じた。出入りする為に割られたICU集中治療室の窓の穴から、僅かに雨風が吹き込んできているのである。扉の隙間を通り抜ける風が、ひゅーひゅーと音を立てていた。
厨房はそこからそう遠くないところにあった。扉を引くと同時に食欲を誘う美味そうな香りが鼻から入ってくる。千秋が作った味噌汁や煮物が鍋に入ったままコンロの上に置かれているのであった。長い時間放置されていたため、もうすっかり冷めきってしまっている。
水はすぐに見つかった。電気を止められたせいで稼動していない大型冷蔵庫の引き出しを開けると、未開封のペットボトルが何十本も姿を現した。風花はすぐにそこから一本抜き出すと、キャップを開けて冷えてもいない水を少し口に含む。ついでに流し台で簡単に顔も洗うことにした。せっかくの化粧を落としてしまうのは気が進まないけれど、丸一日以上風呂にも入っていないし、せめて顔の油くらいは洗い流したかった。
水を飲んで顔を洗うと、なんだか気分が少しすっきりとしたように感じた。精神面での疲れが少しでも解消されたのかもしれない。もちろん体調が完全に回復するなんてことは無いが、これくらいの調子を保てれば、なんとか平静を装い続けることくらいは問題なく行えそうに思えた。試しに銀色の台の上に自らの顔を写して見たところ、大丈夫、そこにある姿はいつもの自分とそう変わらないように感じた。
大分落ち着いたし、そろそろ真緒のところへと戻っても大丈夫だろうと考えた風花は、当初考えていた通り冷蔵庫からもう一本ペットボトルを取り出して、それを胸に抱えたまま厨房から出た。彼女が病室から離れている間に何者かが侵入してきて、真緒の身に危険が及ぶ、なんてことはあまり考えられないことであったが、やはり患者から長時間離れたままでいるというのは少し不安だった。
自分が入院していた時、身の回りの世話をしてくれた女医さんは、結構こまめに様子を見に来てくれていた。今思えば、彼女もまた私の容態に異常が起こったりしないか、心配してくれていたのだろう。
廊下を歩いていると、ふと何かが肌に触れるような感覚を覚えた。病院内の空気が先ほどよりも乱れている。見ると、閉まっていたはずのICU集中治療室の扉が、今は大きく開け放たれているではないか。近寄って中を覗き込み、驚愕した。ばたばたと音をたてて揺れるカーテンの裏で、蜘蛛の巣状にひびが走っていた窓ガラスが全開にされていたのだ。それは、風花が厨房の中にいた短い間に、何者かが病院内へと入ってきたということを意味している。
もしかして千秋と圭吾が帰ってきたのか、と一瞬だけ思ったが、そうでは無いとすぐに分かった。窓ガラスを開けたままにしていれば、自分達が中にいるのを敵に知らせることになってしまう、と圭吾や千秋なら分かっているはずだ。そう、侵入してきた人物とは自分達とは無関係な第三者的な存在。敵である可能性は非常に高い。
しかし、だとするとその人物は、茂みに隠れていた出入り口を、どうやって見つけだしたのだろうか。単に一つ一つの窓を順番に調べまわっているうちに、割れた窓ガラスの存在に偶然気づいてしまっただけなのだろうか。
嫌な予感が頭をよぎり、風花は急いで真緒のいる病室へと向かった。体調が万全でないため、一歩踏み出すごとに視界が上下に大きく揺らいだが、気にしている余裕など無かった。息を荒げながら階段を登り、足音を大きく響かせながら廊下を走る。
嫌な予感は的中した。両側の壁に同じような扉がいくつも並んでいる中、真緒のいる病室だけが大きく開いた状態になっている。
「羽村さん!」
ゼイゼイと息を切らしながら風花は病室内へと踏み込んだ。
部屋の中にはつい先ほどまでとは明らかに違う空気が漂っている。変わらずベッドの上で横になっている真緒の隣で、黒い影がもそもそと動いているのが見えた。
【残り 十二人】 |