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−暴かれた堰−

「おい、早く起きろ」
 上から誰かが身体を揺すってくる。桂木幸太郎は一度寝返りをうってから目を開き、ゆっくりと上体を起こした。
「ほら、そろそろ交代の時間だぞ」
 目の前に屈んでこちらの顔を覗き込んでいるのは、自分と同じ軍服を着た同僚だった。といっても、桂木にとってあまり面識のある顔ではない。彼とは単に、自分と同じ頃に入隊した人物だ、と知っている程度の間柄である。
 目を覚ました直後、寝ぼけていた桂木は自分の置かれている状況をすぐには理解できなかったが、相手の顔を見てようやく思い出した。ああそうだ、俺は今、プログラム管理の助人として鬼鳴島へと来ているのだった、と。
 桂木が起きたのを確認すると、同僚はさらに別の兵士を起こすため、すぐにその場から立ち去っていった。なんとも面倒見の良い方だ、なんて思いながら袖を捲り上げて時計を見ると、時刻はもう二十三時半になろうとしていた。十九時ごろからの記憶が全く無いので、桂木はこれまで四時間以上は眠っていたということになる。千秋たちの安否が気になって眠れないかと思っていたのに、身体は正直だ。
 欠伸をかいてから、のそっと立ち上がり、仮眠室を出てとりあえずは手洗い場へと向かうことにした。顔を洗いたいし、歯も磨きたい。
 一時は緊迫した空気に押し潰されそうになっていた桂木だったが、僅かにでも睡眠をとったせいか、落ち着きを少し取り戻したようだった。というよりも、まだ頭が、ぼーっとしていて、とても難しいことを考えられるような状態じゃなかっただけなのかもしれないが。
 プログラム本部とされている分校の手洗い場は独特の雰囲気を醸し出していた。空間全体が薄暗く、壁には黒っぽい汚れが染み付いたままになっている。古い木造校舎のトイレにはよくありがちな光景だ。入り口から一歩中に踏み入ると、自分がまだ小学生だった頃から今も語り継がれている話、『トイレの花子さん』のような出来事が本当に起こりそうだと、つい思わされてしまう。
 割れた鏡の前に立って念入りに奥歯を磨いていると、突然背後から何かに肩をつかまれ、驚いて歯磨き粉を口から吹いてしまった。とっさに振り返った桂木の目に映ったのは、もちろん幽霊やお化けといった類のものではなかったが、それにしても寿命がまた縮まってしまったように思う。ここに来てから心臓に悪い出来事が多すぎる。
「悪い。驚かすつもりはなかったんだ。ところで、俺にも歯磨き粉貸してくれないか」
 肩を掴んできた兵士が、ヘラヘラと薄気味悪い笑みを浮かべている。持参してくるのを忘れてしまったが、何日も歯を放っておくのは耐えられない、ということなので、桂木は潔くチューブを手渡すことにする。
 時間が経つともに思考力を取り戻してきている桂木は、口から小気味の良い音をシャカシャカとたて始めた男を見て思った。自分達がいるこの島の中で、尊い命が次々と失われていっているというのに、なぜこんなにも無責任に笑っていられるのだろうか、と。以前木田聡が言っていた『真性愛国者』という名の狂信者たちだって、人が人を殺すということがどれだけ重い罪なのか、そしてどれだけ深い憎しみと悲しみを生み出すか、常識としてきっと分かっているはず。それなのに、プログラムのことは祭騒ぎのようにしか思えないだなんて、どう考えたって馬鹿げている。
 ふつふつと湧き上がる怒りを抑えつつ、用を済ませた桂木は管制室へと向かった。深夜零時の交代も近いので、そろそろ皆集まり始めているだろう。
 管制室の扉を引いたとき、殺伐とした空気を感じた桂木は息をのまずにはいられなかった。盗聴回路が麻痺してしまった原因は未だ解明されていないらしく、担当教官の田中一郎の怒りが治まらず、部屋中にピリピリと緊張感が漂っているのだ。火山の爆発を恐れる兵士達は事態を改善させようと懸命に動き回っているが、多くの者は全く見当違いの場所で、無駄に体力を浪費させているだけであった。それは、圭吾たちの脱出計画が成功することを望んでいる桂木にしてみれば好都合なことであったが、あと三十分後に自分達が彼らの職務を引き継がなければならないと思うと、少しうんざりしてしまう。回路が麻痺してしまった理由を知っている自分と木田は、何も知らぬ顔をして『原因究明に努めているふり』をしなければならないのだ。演技力に自信が無いだけに、少々不安だ。
「よう、眠れたか」
 管制室に入ってくるなり桂木に声をかけてくる者がいた。木田聡だった。
「狭い部屋に大人数で雑魚寝するのは少々きつかったが、思いのほか休むことは出来たよ」
「それはよかったな。俺は慣れない枕のせいで、あまり快適な夜は過ごせなかった」
 木田は背中を伸ばしながら大きく欠伸をしている。快適な夜を過ごせなかったのは枕のせいではなく、自分達の行いが何時ばれてしまうかという緊張のせいだったのでは無いだろうか。メインコンピューターのプログラム書き換えという大それた裏切り行為の実行犯ともなれば、精神にかかる負担は絶大なものとなるだろう。しかし木田は見た目にはそれを感じさせないほどの、いたって普段どおりの振る舞いを違和感無く続けている。彼はなかなかの演技力を持っているようだ。
「諸君。おはよう」
 交代の兵士がある程度集まったところで、御堂一尉が皆の前に立ち、この十二時間の間に起こった出来事などについて説明を始めた。眠りについていた者たちに現状を分からせるためだ。
 桂木や木田を含めた全員の姿勢が一斉に正しくなる。
「プログラムはもうすぐで開始から丸一日が経過する。現時点での死者は二十九名。残るは、男が五名、女が十一名、合計十六人となっている。ちなみに十八時の放送以降に死んだ生徒は三名」
 淡々と話す御堂の後ろでは、田中が表情を険しくさせたまま書類に目を向け、それからマイクの用意を始めている。定時放送まで時間はあまり残されていないので、十二時に読み上げられる名前は三人だけに留まりそうだ。
「禁止エリアは後々、各自で確認しておくように、プログラムそのものには特に変わったことは無い。ただ、一つ問題が発生した」
 桂木は、そらきた、と思った。
「十三時過ぎ、突然生徒の首輪とメインコンピューターの間に繋がる回線の一部がダウンし、音声が一切途絶えてしまうという事態が起こった。原因は未だ明らかになっていない。プログラムを運営する上での決定的な支障とはならないものの、このままでは鮮明な戦闘データを得ることは困難だ。そこで、これからお前達には通常の任務を進めつつ、その原因究明にも力を注いでほしい」
 辺りが急にざわつき始めた。桂木と木田を除くほとんどの者たちは、眠っている間に起こっていた事態のことなんて今の今まで知らなかったのだから、多少動揺してしまうのも仕方ない。
 それにしても、本当に思っていた通りだった。これから十二時間、敵国に入り込んだスパイのような小芝居を続けなければならないかと思うと憂鬱である。
「以上。各自全力を尽くすように」
 最後を強く言い切って、御堂は身体の向きを百八十度返した。その時だった。
「田中教官!」
 突然、これまで原因究明に勤しんでいた兵士の一人が椅子から勢いよく立ち上がってコンピューターの画面を指差した。
「これっ、これを見てください」
 興奮気味の呼び声に、田中は「何事だ」と返しつつ、兵士の方へと早足で近寄っていく。
「ぷ、プログラムが何者かに書き換えられています!」
 桂木の顔から血の気が引いた。間違いない。自分達が行った細工が、陽光の照りつける地表へと姿を現してしまったのである。
「なんだと! それで、復旧までどれくらいかかる?」
「分かりません! データの量が膨大なので、目を通していくだけでもどれだけの時間を要するか」
「構わん! とにかく全力で作業に取り掛かるんだ!」
 騒ぎが大きくなっていくのを、桂木と木田は呆然と見ているしかなかった。事態は二人の予想よりも遥かに早く訪れた。

【残り 十六人】
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