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−灼熱の信頼(2)−

 体勢を整える暇も無い状態で、それも傾斜のきつい山中での全力疾走は、さすがに少々無理があったかもしれない。息はすぐに上がってしまい、激しく動悸する身体が多量の酸素を欲し始める。
 尋常でないほどの疲労に耐えかねて土屋怜二(男子十二番)は足を止め、立ったまま側の木に寄りかかった。本当は大の字になって地面の上に寝転がりたいと思うほど疲れているが、溶けたチョコレートみたいになってしまっている泥の上に身を倒す気なんてさすがに起こらない。
 荒い呼吸を繰り返しながら肩を上下させて、怜二は周囲を見回した。微風を受けた木々が頭の上で葉を揺らしている様は、まるで恵みの雨に喜んで身体をくねらせているかのようだった。しかし怜二にとっては雨なんて、貴重な体力を奪っていく邪魔なものでしかない。水分を含んで重くなったブレザーが本当に忌々しかった。
 こんな時に誰かに襲われたりでもしたら、今度こそ一巻の終わりだろうな――。
 彼はプログラムが始まって以来、実に二十四時間近く睡眠をとっていない。そして今回、奇襲を仕掛けてきた安藤幸平から逃れるため必死に走り、多大な体力を消耗してしまった。運に味方されたのか負傷こそしてはいないものの、今の彼はまさに「ぼろぼろ」という言葉がよく似合うような状態である。こんなときに敵と遭遇してしまっては、戦うどころが逃げることもままならないだろう。
 早いところ体力を回復させなければ、と、怜二は移動を少しの間中断し、その場で休息をとることにした。周囲の様子に気を配りつつ、ポケットから取り出したハンドタオルで、雨に濡れた顔を拭く。続いて髪が含んでいる水分をハンドタオルに吸い取らせていると、手になにやら粘着質の細い線が絡み付いてきた。蜘蛛の糸だった。山中を駆け回っていたとき、迂闊にも木々の間に張り巡らされていた巣にひっかかってしまったらしい。
 山に生息する蜘蛛は、人里でよく見かける種よりも大きいというイメージがある。例えば大型の蜘蛛の一種であるコガネグモなんかは、体長三センチほどにまで成長してしまう。
 怜二は少し顔をひきつらせながら長い髪に指を通し、絡みついた粘着性のある糸を取り払い始める。
 蜘蛛は苦手だ。あの足が八本もある特徴的な体のつくりはどうしてもグロテスクにしか思えず、見るたびに自然と身がすくんでしまうのだ。梅林中サッカー部のゴールキーパーとして華々しく活躍し続けてきた彼の意外な弱点である。幸い頭に絡み付いていたのは巣だけだったのか、お尻から糸を伸ばす八本足が目の前に現れたりはしなかった。
 頭についていた巣をある程度取り除いたころには、利き手を覆う手袋が蜘蛛の糸まみれになっていた。祭の屋台なんかで売られている綿飴を思わせるほどの酷い有様で、繊維の間にまで入り込んでいるそれらを全て排除しようとするのは見るからに大変そうである。
 すぐさま手袋を外そうという衝動に駆られるものの、怜二はすんでのところで思いとどまった。手袋は絶対に外してはいけない。辛い過去の映像を思い出させるあの『傷痕』は、極力目にするべきではない、と内なる声が頭の中に語りかけてきたのだった。

 二年前の松乃中等学校大火災発生時、土屋怜二は三階の教室の中で友人達とくだらない雑談に花を咲かせていたせいで、周囲の騒ぎになかなか気付けず、その結果、逃げ遅れてしまうという大失態を犯してしまった。肉眼で煙が見えるくらいになるまで教室内に留まり、のん気に話を続けていた自らの無神経さを、これほど情けなく思ったことは無い。
 事態を飲み込んでからはすぐに気持ちを切り替えて避難を開始したが、人でごった返している東階段の流れは悪く、なかなか下の階に下りられなかった。背後からは炎と煙が迫ってきており、焦りと不安が物凄い勢いで募っていく。
 人ごみの中、いつしか一緒に避難し始めたはずの友人達とはぐれてしまっていた怜二の耳に、迷える子羊たちの悲痛な声が次々と飛び込んできた。混乱した誰か一人が叫び声を上げたのをきっかけに、触発されるようにして騒ぎの波紋が連鎖的に広がっていったのである。死の恐怖に怯えて声を上げる者たちの顔色は、皆一様に真っ青だった。だが、怜二はこういう時こそ冷静にならなければならないと自分に言い聞かせ、なんとか自我を保ち続けた。何らかの災害に巻き込まれた際、混乱が災いして命を落とすという人はかなり多いのだ。
 冷静さを保ちつつ階段の下のほうを見据えていると、少し前によく知った顔があるのに気がついた。自分と同じサッカー部に所属している磐田猛だ。ライオンの鬣を思わせる特徴的な髪型は、この人ごみの中でもよく目立っている。悲壮な表情を浮かべる生徒達に囲まれている彼は、はぐれてしまった連れでも探しているのか、しきりに周囲に視線を配っていた。
「猛」
 怜二が呼ぶと、彼はすぐさまこちらを振り返った。運動部に所属しているうちに培われた、芯の通ったはっきりとした声は、この騒がしい状況の中でもなんとか相手の耳に届いたらしい。
「なぁ猛、下は今どうなっている? 俺はさっき事態に気がついたばかりで、あまり状況を把握できていないんだ」
「それなら俺だってあまり変わらないさ。だが、どうやら火はもう二階にまで達していて、三階まで上ってくるのは時間の問題だそうだ」
「なんだって」
 確かに、猛の言葉を証明しようとするかのように、煙の濃度は刻一刻と高まっている。息苦しさに耐えかねて咳き込み始めている者は決して少なくは無かった。
 さすがの猛の表情にも、微かに緊迫の色が浮かび始めている。
「どうするよ? 列はなかなか進まないし、このままじゃあ俺ら蒸し焼きにされちまうぞ」
 どうするかと言われても、周りの人間が進んでくれなければどうしようもない。四方八方から身体を圧迫されて腕一本動かすこともままならない状態では、無理やり人を掻き分けて下ることも、流れに逆らって戻ることもできないのだ。人の波に流されるまま、自然に一階に着くのを待つほかない。
 しかし列の動きはなかなかスムーズにならず、そのせいで、階段を一段下るだけでも、普段からは考えられないくらいの時間を要してしまう。当然、一階なんてなかなか見えてこず、怜二は恐怖感に満たされた地獄のような時をしばらくすごす羽目となってしまった。
 一階に着いたときにはもう、廊下一帯に火の手が広がっており、もはやほんの一瞬の気の緩みすら許されないような状況だった。すぐ脇で赤々と燃え上がっている炎にわき目も振らず、出入り口へと真っ直ぐに駆け出す。そんなときだった。怜二たちの行く手を阻むかのように、目の前に崩れた校舎の瓦礫が山となって現れた。
 怜二は目を疑った。既に火がまわり始めているその瓦礫の下に、身体が挟まって身動きが取れなくなってしまっている少女の姿が見られたのだ。彼女は必死に手を伸ばして「助けて」と叫んでいる。煙の中で意識が朦朧としているのか、その声はとても弱々しかった。
「どうした怜二。早く外に逃げないと本当にマズイぞ」
「待ってくれ。瓦礫の下に人がいるんだ」
 猛もすぐに事態を察してくれたようで、瓦礫の山の方を見てにわかに表情を歪ませた。
「ど、どうするんだよ」
「どうするって、そりゃあ助けるしかないだろ」
 このままでは少女が炎に飲み込まれてしまうのも時間の問題。こんな所で悠長に立ち止まっていられる余裕なんて無かったけれど、見て見ぬふりして自分達だけ避難してしまうなんて、怜二たちにはとてもできなかった。
 二人はすぐに少女のもとに駆け寄って、全力でその身体を引っ張り出そうとする。しかし圧し掛かっている瓦礫はかなりの重量があり、無理に引っ張ったところで少女の身体はびくともしない。
「どうやら、先に瓦礫の山をある程度取り除いてからでないと、救出なんて不可能そうだぞ」
 猛が言ったのとほぼ同時のことだった。突然、現場に一人の男が駆けつけてきて、少女の身体を拘束している瓦礫の山に手をかけた。確か猛と同じクラスの人物で、比田圭吾という名前だったはず。彼も瓦礫の下の少女を助けるのに手を貸してくれるのだろうか。
「何呆けている! 助けたければお前たちも早く手伝え」
 瓦礫を一つ一つ手で払い除けながら、圭吾はこちらを振り返って強い声で言った。隆々たる筋肉を全身に備えている彼であろうとも、時間に余裕がほとんど無い中、一人でこの瓦礫の山の相手をするのは難しいようだ。怜二と猛は言われてすぐ、瓦礫の撤去作業へと行動を切り替えた。だが、三階建ての校舎を支え続けてきた柱や天井の一部などは、一つ一つが思っていた以上に重く、三人がかりとはいえ作業は困難を極める。
 意識を失いかけている少女はこちらの存在に気付いていないのか、救出作業が始まってからも、未だどこかに向かって助けを求め続けている。そんな弱々しい声、誰にも聞こえるはずが無いのに。
「おい、ヤバイぞ。火がもうそこまで来ている」
 猛の言葉で、怜二は炎が急接近していることに気がついた。校舎の大部分が木で造られていると、さすがに火の回りも早い。既に瓦礫の山の半分ほどに炎が広がっている。
「あーちくしょう! このままじゃあ間に合わない」
 ある程度瓦礫の山を撤去できたところで、怜二はそろそろ引っ張り出せるかと思って少女の手を握り、力任せに引いた。しかしまだ身体が出てくる気配は無い。何本かの太い柱が上下から胴体に噛み付いたまま放してくれないのだ。
 さらに瓦礫の山を軽くしなければならないらしいので、再び撤去作業のほうに戻ろうとした。そのとき、少女が一段と大きな悲鳴を上げた。何千度もの高熱を発する火炎が、ついに足元にまで到達してしまったらしい。瞬く間に少女の全身に火がまわっていく。
「頑張れ! もう少しの辛抱だから! あと少しだから!」
 みるみるうちに焼け爛れていく少女の手を、怜二はなかなか離そうとしない。相手の意識は既に途切れているというのに、手を繋いだまま励まし続けていた。


 直接身を焼かれる苦しみというのは、とても耐え難いものであっただろう。そんな中、君はよく頑張って生きつづけた。もう大丈夫。あとは俺達に任せるんだ。絶対に、この灼熱地獄の中から救い出してあげるから。
 怜二は必死だったせいか、少女の手と繋がっている自らの利き手も炎に焼かれているというのに気がつかなかった。もしかしたら、このとき怜二も半分意識を失いかけていたのかもしれない。
 怜二が少女の身体を引っ張り続けている間、猛と圭吾の二人も赤い灼熱の悪魔に臆することも無く、瓦礫の撤去作業を続けていた。その結果、ほどなくして少女の身体を引きずり出すことに成功した。
 男三人はすぐに少女の身体を抱えて校舎の外へと走り出す。そして、皆身体のどこかに軽傷は負っていたものの、何とか無事に生還することができた。
 少女はすぐに病院へと運ばれていった。全身にかなり酷い火傷を負っていたので命が助かるかどうかは分からない。怜二たちはただただ少女の意識が戻ることを祈り続けた。
 ところで、右手に酷い火傷を負ってしまった怜二だが、彼は学校を出発した救急車が見えなくなるころまで、そのことに全く気付かなかった。少女の安否ばかりを気にしていて、自分の身体のことにまで頭が回っていなかったのだった。

【残り 十六人】
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