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−灼熱の信頼(1)−

 風雨を受ける森林中の木々が蠢く様は、まるで小さく波打つ海面のように見える。波が頭上を通り過ぎるたびに、葉の表面から振り落とされた無数の雫が身体中に降り注ぎ、とても冷たい思いをした。
 春日千秋(女子三番)は息を切らしながら、額を伝う水滴を手の甲で拭い、前を向き直る。数メートル先を走る比田圭吾(男子十七番)は一向にペースを落とそうとしないので、置いていかれないように一瞬たりとも気を緩めるわけにはいかなかった。元々の体力に差がありすぎるため、進行方向とレーダーの表示に気をつけながら進まなければいけない彼についていくのだって大変なのだ。
「ねえ、あとどれくらいで着くの?」
 唐突に千秋が圭吾に聞いた。目指している農村まで残り何百メートルなのか。あるいは、何分くらいで到着できるのか。
 山代総合病院を出てからこれまで走ってきた時間なんて、さほどたいしたものではなかったけれど、傾斜やぬかるみの多いこの山道を、爆弾の材料を担いだ状態で戻らなくてはならないという帰りのことを思うと、少し憂鬱になってしまう。
 早く目的地に着いてしまいたい。これ以上帰り道の距離を伸ばしたくない。なんて思ってしまうのは、べつにおかしなことではないはずだ。
「だいたいあと半分くらいだ」
 圭吾の返事を聞いて、千秋はがっくりと頭を前に倒した。これまで走ってきた距離の倍を、帰りは荷物を担いで歩かなければならないのだから。相当過酷な労働になるだろうと、今からでも容易に察しがつく。しかし仕方ない。自らかってでた役割を不満に思うだなんて、自分勝手も良いところだ。
 ええい、もうどうにでもなれ。
 ここまできたら道のりが二倍三倍になろうが変わりない、と千秋は自分に言い聞かせつつ、少し躍起になって足を動かすスピードを早めた。靴の隙間から染み込んできた水のせいで靴下はもうずぶ濡れになっており、水溜まりの中に足を踏み入れることなんてもはや気にもならない。膝から下は両足とも泥だらけだ。
 倒木を大きくまたいで、小さな沢の上を飛び越える、なんて現代女子中学生らしからぬ豪快な走りは、どこか野生児の姿を思わせるところがあったかもしれない。
 ところで、千秋と圭吾は病院を出発して以来、周囲の様子に脇目もふらず堂々と山道を走ってきたというのに、誰かに見つかってしまうなどという事態はこれまでに一度も起こっていない。レーダーの性能は確かなものであるということだ。おかげで、周囲に人が隠れられそうな木陰や茂みが無数にあるにもかかわらず、今は安心してその脇を通ることが出来る。
 千秋が足を踏み入れた水溜まりから泥が跳ねた途端、前を走っていた圭吾がスピードを落とし、突然立ち止まってしまった。
「どうしたの?」
 不思議に思って千秋がすぐ側に寄ると、圭吾は下を向いて「足跡だ」と小さく言った。それにつられて地面に目を向けると、確かに梅林中独自の指定革靴の形に土が陥没し、そこに雨水が流れ込んで小さな水溜まりを形成しているのが確認できた。
「つい最近誰かがここを通ったわけね」
 一直線に伸びる足跡は雨に消されることなく、今もまだくっきりと残っている。足跡がつけられてからそれほど時間は経過していないという証拠だ。
「ああ。そして時間や場所などから推理すると、足跡の主はおそらくこいつだろう」
 圭吾がレーダーの画面を拭ってから千秋に見せ、ある一点を指差した。そこは地図で言うG−七エリアにあたる場所で、中心に表示されている赤いドットが一つゆっくりと動いている。足跡が向かっている方角で、かつ短時間で移動できる距離に表示されているドットは他に無かった。圭吾が言うとおり、足跡の主はこの人物に間違い無さそうだ。
「もしもこれが仲間にしても安全な子なんだって分かれば、今からでも簡単に追いつけそうね」
 しかし、唯一の痕跡である足跡から、一ミリか二ミリ程度のドットに簡略化されてしまっている人物の正体を知るなんて、そう易々と出来ることではない。
「もしも――」
 千秋の発言には答えず、ただ難しい顔をするばかりかと思われた圭吾だが、少し思案してから口を開いた。
「もしもこれが怜二の足跡だと断定できるなら、今すぐ後を追いかけるべきなんだが――」
 まただ。
 不意をつくような圭吾の発言に、千秋は首をかしげた。あまり他人と関わりを持とうとしない彼が、なぜ磐田猛と土屋怜二の二人のことは心から信頼しているのか、未だ明確になっていないからだ。圭吾、猛、怜二、この三点の間に存在しているトライアングルはいったい何を機に、そしてどのようにして築かれたのか、全く予想すらできない。
「ねぇ、比田くんはどうしてそんなに磐田くんや土屋くんのことを気にし続けているの?」
 気になった挙げ句、千秋はついに聞いてしまった。はたしてこれは相手にとって答えづらい質問であるのかどうかも分からないけど、そんなことに気を遣って仲間の心情を謎のままにしておくのも、そろそろ耐え難く思うようになってきていた。
 プログラムの最中、千秋だって昔からの親友以外は易々と信用できなくなってしまったというのに、慎重さにこと関してうるさい圭吾が、普段からとくに仲良くしている様子も無い怜二たちのことを、会ってもいないのに信用してしまうなんて、どうもしっくりこないのだ。
 しかし圭吾は、ふっとため息を吐き、「お前にはどうでもいいことだ」と、色付き眼鏡の下からこちらを睨み付けるばかり。毎度のことながら、彼に鋭い目を向けられると、威圧感に負けて何も言えなくなってしまう。
「こんなところでグズグズしている暇は無い。目的地まで残り半分、足を止めないよう一気に走るぞ」
 そう言って圭吾が再び動き出してしまったので、千秋は見失わぬよう、黙ってその後について走るしかなかった。
 ああ、結局私は比田くんを知ることは出来ないのか。
 前を走る大きな背中を見ながら千秋は思った。ところがその直後、全く思いもしなかった事が起こった。
「磐田や土屋とは、二年前の松乃中大火災のときに瓦礫の下に埋もれてしまっていた一人の生徒を助けるため、協力し合ったことがある――」
 圭吾は振り向いて千秋が付いてきているのを確認すると、確かにそんなことをぼそりと言ったのだった。

【残り 十六人】
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