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−奇跡は再来す(2)−

 深い樹林の奥からこちらへと近寄ってくる正体不明の人物を仕留めると決めた幸平は、茂みの中から飛び出して相手に襲い掛かる、なんて早まった真似はせず、身体を小さくして息を殺しながら、とにかく時が訪れるのをじっくりと待った。こちらが動かなくても、このままだと相手はおそらく自分のすぐ側を通るはずだから。攻撃はその瞬間に仕掛ければいい。かつて同じ戦略で比田圭吾に返り討ちにされたことはあったが、あれは単に相手が悪かったのと不運が重なっただけのこと。この戦略自体はそれほど悪くは無いはずだ。むしろ今問題なのは装備について。武器らしいものを何一つ持っていない現在、近づいてきた相手を確実に仕留めるというのはなかなか難しいだろう。相手の背後から首を絞めるためとして、襟元から外した長いネクタイを手にしてみたものの、やはり銃と比べると圧倒的に頼りない。
 はたして、こんなもので上手く相手を仕留められるのだろうか。
 相手が小柄で力の無さそうな女子――前の放送まで生き残っていた人物で例えれば、白石桜や松原雛乃あたりなんかだったら、問題なく事を終わらせることも出来るかもしれない。背後から首にネクタイを巻きつけて、もがき苦しむ相手が動かなくなるまで、力の限り引き絞り続けてやればいいのだ。しかし逆に、普段からある程度の力を誇示しているような人物が相手なら、そう上手くはいかないだろう。幸平はとくに体力に自信があるわけでも無いし、男子でなくとも中沢彩音のような体育系の女子が相手だったとしたら、かなり厳しい戦いを強いられることになる。
 というわけで幸平は、近づいてくる相手が力の無い女であるように、と祈り続けた。それでいて何か強力な武器を持っている人物だったら、なお良し。こちらが襲い掛かる際に大きな危険が伴うことにはなるだろうが、上手くいったときに得られる物も大きくなる。
 さあ、奴はいったい誰なんだ? どんな武器を持っているんだ?
 相手はもう、かなり間近にまで接近してきている。二人の間はもはや二十メートルも離れてはいないので、そろそろ肉眼で姿形を確認することも出来なくは無いはずだ。
 目を凝らすと、暗闇の中にぼんやりと接近者の輪郭が浮かび上がる。残念なことに身体は小柄では無さそうだが、下ろした髪はそれなりに長く、おそらく女子であると思われる。次に武器を確認しようと手元へと目を向けるが、何故か相手は何も持っていない様子だった。武器どころか、全員に支給されたはずのデイパックの姿すら見えない。
 いったいどういうことかと思って眉をしかめていた幸平は、すぐに自らのある思い違いに気付くことになった。さらに接近してくる相手を見続けていて分かったのだが、その正体は実は女なんかじゃなかったのである。長年に渡ってスポーツで鍛えられてきた身体はがっしりとしており、離れて見ているだけでもその力強さはひしひしと感じられた。
 長い髪をした体格の良い男。それは梅林中のサッカー部でゴールキーパーを務めていた土屋怜二(男子十二番)である。
 幸平は頭を抱えた。まさかよりにもよって、自分が狙っていた獲物の正体が怜二だったなんて、と。
 サッカー部のゴールキーパー土屋怜二といえば、身体能力において磐田猛や比田圭吾らと共にクラスのトップに立っていたような人物だ。もしもこちらが攻撃を仕掛ける前に気付かれたり、向こうが反撃してきたりしたら、勝てる見込みなどあまり無いかもしれない。
 怜二はもう目と鼻の先にまで迫っており、身の安全を先に考えて今回は奇襲を見送ることにするか、決死の思いで襲い掛かるか、悩んでいる暇など無い。幸平はすぐに覚悟を決めた。
 ここで痛い思いをするのを恐れていたら、状況はいつまで経っても好転しない。相手が怜二だろうがなんだろうが、今この場で仕留めるべきだ。大丈夫、恐れることは無い。きっと奇跡が味方してくれる。
 幸いなことに、怜二は圭吾のように茂みに潜む幸平の存在に気付くことなく、すんなりと側を通過してしまった。彼はしきりに周囲を見回しているが、どうやら辺りを警戒しているというよりも、何かを探し続けているといった様子だった。
 さて、怜二は今、幸平へと無防備に背中を向けて歩いている。襲い掛かるなら、こちらの存在が気付かれておらず、相手との距離も近い今しか無いだろう。両手でぴんと張ったネクタイを構えながら、なるべく音を出さないように立ち上がり、ゆっくりと近寄っていく。歩くたびに足と擦れ合う草が僅かに音を立てるが、雨風の唸りがそれをかき消してくれるので、怜二の耳に届くことは無い。


 土屋。お前は今ここで死ね。
 背中にぴったりとくっついた途端、幸平は怜二の首にネクタイを一周させ、うなじの辺りで交差させた。そして力の限り引き絞る。
 思わぬ奇襲に、さすがの怜二もすぐには対応できなかったようだ。ぎりぎりと自分を締め上げるネクタイを外そうともがくものの、首にしっかりとめり込んでしまっているそれを手で掴むことは容易ではない。
 頚動脈を圧迫された人間が気を失うまでは、締める力の具合にもよるが、だいたい十秒とかからない。意外と短いものなのだ。そのため、幸平は最初に上手くネクタイを巻きつけることができたという時点で、ある程度自らの勝利を予感していたのだが、それももうすぐ現実となる。
 さあ、早く死ね。そしてお前の武器を俺によこしやがれ。
 ネクタイを締める手の力をさらに強めた瞬間、怜二の身体が突然後ろへと動いた。最後の抵抗なのだろうか。とにかくその背後にいた幸平は、怜二の背中に押されるがままに、勢いよく後ろへと後退する。
「うげっ!」
 強い圧力に抗えず、幸平はそのまま後ろの大木へと背中を打ちつけ、思わず声を上げた。その時の衝撃で、不覚にもネクタイを締めていた手の力が緩んでしまい、一度は捕らえた怜二を解放してしまった。
「げほっ! げほっ!」
 首に巻きついていたネクタイから逃れた怜二は、幸平のもとから素早く一歩二歩と離れながら、激しく咳き込んでいる。
「幸平? お前……、いきなり何をするんだ」
 赤くなった首を抑えながら、怜二が苦しそうな表情で問う。しかし、はっきり言ってそれは愚問でしかない。プログラムに参加してしまった以上、クラスメートに危害を加えることに理由など必要ないはずだ。だから幸平はそれについては何も答えなかった。そしてネクタイを手にしたまま、再び怜二へと向かって走り出す。
 奇襲が失敗してしまった以上、真っ向勝負での勝ち目が薄い幸平は、これ以上執拗に怜二に立ち向かうべきではなかったのだが、彼にはこの緊張感の中でそんな判断を下せるだけの冷静さなんて持ち合わせていなかったのだった。
 薬で身体を強化していた黒河龍輔とは違い、幸平なんかでは全く怜二の相手になどならない。無防備に相手に飛びついた幸平はまたしても、筋肉の引き締まった足で力強く蹴飛ばされてしまい、地面の上に倒れ込んだ。
「て、てめぇよくも!」
 幸平はすぐさま立ち上がるが、その時には既に怜二の姿は周囲に見られなかった。幸平に一撃を加えた後、素早く森の奥へと退散してしまったようだ。
 あまりの悔しさに耐え切れず、幸平は握り締めた拳で地面を殴った。雨をしっかりと含んで泥と化していた土が飛び、彼の顔に斑点を描く。
「畜生! どうしてこんなにも不運ばかりが続くんだ! 俺は『奇跡の少年』じゃなかったのか!」
 水溜りに映る自分の顔は泥だらけ。それがさらに雨の波紋で歪み、よりいっそう哀れな姿に見えた。
 ズシャッ。
 頭の中で聞きなれぬ音が大きく反響した途端、足元に映る自分の歪んだ姿が真っ赤に染まる。頭のてっぺんから流れ出した鮮血が、水溜りの中に降り注いだのであった。
 幸平がゆっくり背後を振り向くと、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたまま、赤く染まったツルハシを構えている白石幹久(男子八番)が、いつの間にか立っていた。
 それが、彼が最後に見た光景だった。

 今となってはどうでも良いことだが、幸平が襲った土屋怜二は、数回にわたる戦いを経て、全ての武器を失ってしまっていた。もしも怜二を仕留めることができたとしても、幸平が新たに武器を手に入れることなんて出来るはずが無かったのである。
 幸平は早く気付くべきであった。奇跡とは、滅多に起こらないからこそ奇跡というのだ、と。


 安藤幸平(男子一番)――『死亡』

【残り 十六人】
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