011
−雨中の決死行(3)−

 目の前の信じられない光景を見て息を呑む千秋。
「わ……かこ?」
 稲光が去り、林の中は再び暗闇と化し、相手の姿はほとんど見えなくなっていた。うっすらと見える人影だけが、その存在を今も証明している。
 雷光に照らされたほんの一瞬だけしか見えなかったが、あれは間違いなく山崎和歌子だったと断定できる。真っ白に輝く世界の中に浮かび上がった、あの恐ろしき形相は頭の中に鮮明に焼きついていた。
「千秋か?」
 今や顔の見えなくなってしまった人影が、どすの利いた声で聞いてきた。一瞬の光の中で、向こうもこちらの正体を把握できていたようだ。
「ええ」
 千秋はできるだけ平静を装って返した。本当は今すぐにでもこの場から逃げたいくらいに怖かったのだが、恐怖に固まってしまった両の足は思い通りに動かなかったのだ。
 一瞬だけ見えた恐ろしい光景を思い出す。
 山姥のような形相でこちらを睨み付けていた和歌子の眼差し。そしてその足元に、頭をぐちゃぐちゃに潰され、変わり果てた姿となって転がっていた良規の骸。
 いくらプログラムの最中だとはいっても、どこかそれをまだ完全には認識できていなかった千秋にとって、一瞬でもその光景を見てしまったことは衝撃だった。
 暗闇の中でゆらりと影が動いた。
「あんた、見たね?」
 和歌子が問う。しかし千秋は返答できない。それほどまでに怯えきっていたのだ。
 暗闇の中に浮かび上がっているさらに黒いシルエットは、両手で何かを握っている。棒の先に三角に近い形をしたものがくっついているのは分かったが、それが何なのか明確には分からない。しかしあれが和歌子に支給された武器なのだろうということは容易に想像できた。
 影がこちらへと一歩踏み出した。まだ二十メートルもの距離が離れているというのに、痛いほどに殺気が伝わってくる。
 耐え切れなくなり、千秋はついに後方へと走り始めた。頭の中で危険信号が鳴り響いた途端、千秋の足をがっしりと抑えていたリミッターが解除されたのだ。
 千秋が逃走を図ったのを目にすると、じりじりとにじり寄ろうとしていた殺人者も追跡を開始した。
 もともと二人の間に開いていた距離はおよそ二十メートル。そのうえ先に走り出したのは千秋だったため、本来ならばすぐに追いつかれるような状態ではなかった。しかし今回は相手が悪かった。
 山崎和歌子、陸上部所属。クラブ活動で日々汗を流している彼女と千秋では、その体力の違いは歴然だ。さらに困ったことに、和歌子はクラスの女子の中で最速の足を武器として持ち備えている。これだけのデータを目の前に突きつけられた時点で、この追いかけっこの勝敗は明らかだった。
 唯一千秋に有利だったのが支給武器。もちろん対面しての戦いならば双眼鏡など無力だが、それを抱えて走るとなると話は別だ。ほとんど重さが無いに等しい双眼鏡ならば、走っていても邪魔にはならない。対して和歌子の武器。その正体はまだ明らかになってはいないが、あれだけ大きなシルエットから想像すると、それなりの重さはあるはずだ。それが追跡の邪魔となり、彼女の走る速度を低下させるはず。
 千秋が和歌子から逃げ切れるかどうかは、もはやそれ一点にかかっていた。
 千秋はとにかく駆ける。後ろを振り返る時間をも惜しみ、ただ真っ直ぐ前だけを見据えて走り続けた。
 皆で集まるって約束したんだ。こんなところで阻まれてたまるもんですか!
 逃走の最中、雑草に絡み付かれるたびに、その足を力の限りに引っ張る。そのタイムロスのたびに焦りがこみ上げてくるが、条件は和歌子も同じ。彼女も林内での走行には苦戦しているらしく、その足音は一向に近づいて来ず、二人の距離は常に均一に保たれていた。
 どうやら千秋の考えは当たっていたらしい。和歌子は重い武器を抱えての追跡に手こずっているのだ。
 このまま走り続けたら逃げ切れるかもしれない。
 木々の間を走り続けながら、千秋はそんなふうに思い始めていた。しかし、これまで地面を蹴り続けていた千秋だったが、突如足が宙に浮いた感覚を覚えた。
 何だ?
 千秋が足元を見たときには既に遅かった。茂みに隠れていて分からなかったが、足元には人間一人が落ちるには十分すぎるほどの幅がある深い穴が開いていたのだ。かなり風化の進んだ古井戸跡のようだった。
 千秋は両腕で穴の縁の地面にしがみつき、深淵に吸い込まれようとする自らの身体を、かろうじて受け止めることができた。
 底に足の届かぬほどの深い穴から這い上がろうとする。しかし遅かった。千秋が次に上を見上げたときには、殺意に表情を恐ろしく変貌させた山姥の顔が間近にあった。
 林の中がいくら暗かろうとも、これだけ間近に迫られれば、相手の顔もはっきりと見える。そのせいで千秋の中の恐怖感がさらに膨らんでしまったのだが。
 深い影に顔中を覆われた和歌子の目は、いつもよりも落ち窪んで見えた。
 彼女は両手で抱えていた“武器”を無言のまま振り上げる。先ほどまで正体不明だったそれも、今となっては何なのかはっきりと分かる。
 長い柄の先に鉄製の三角形が取り付けられた長さ一メートル数十センチのそれは、園芸などに用いられる大きなシャベルだった。
 本来シャベルは人殺しに用いられる道具などではない。田舎の平和な農村にでもあったほうが似合うほどの物だ。しかしこれを手に持った者が殺意に支配されていたならば話は別だ。長い柄の先に取り付けられた金属器はかなりの重量を誇り、振り下ろされたならば人間の頭蓋骨を砕くには十分すぎるほどの破壊力を発揮するであろう。それを証明するかのように、和歌子に襲われた良規は見るも無残なほどに頭部を砕かれていた。
 和歌子の頬から滴り落ちた雨の雫が、未だ穴から這い上がれていない千秋の額にぶつかって弾けた。
 雨はまだ降り続けている。林の中でお互いの目を見詰め合っている二人の少女をさらに濡らすべく、その勢いはますますと増していく。
「どうしてそうも簡単に人が殺せちゃうの!」
 逃走は不可能だと悟った千秋は、変わり果てたクラスメートの形相を見上げながら、涙ながらに叫んだ。和歌子はシャベルを上へと振り上げた体勢のまま、身動き一つ取れずにいる千秋を見下ろしながら冷ややかに答える。
「どうして? 何を寝ぼけたことを言っているの。これがこのプログラムのルールでしょ」
「だからって、二年以上も一緒に過ごしてきたクラスメートを、何の慈悲も持たずに殺せちゃうなんておかしいよ!」
「あんたバカ? おかしいのは私じゃなくてあんたの方。他人を殺さなきゃ自分が生き残ることはできない。そんなルールに支配されているこの島の中じゃあ、慈悲とか友情とか、そんな甘い言葉は何一つ通用しない。だから私は殺すの。過去の関係全てを断ち切って、新たなる人生へと踏み出すために」
 千秋はぞっとした。まるで過去の思い出全てが単なる虚構だったとでも言いたげに、次々と冷たく襲い掛かってくる和歌子の一言一言に。そして恐ろしさのあまりか、和歌子の言うことが正しいのかとも思い始めてしまっている自分に。
「質問はこれでおしまい? それじゃあね。さようなら」
 穴の縁に必死にしがみついている千秋の頭へと狙いをしっかりと定めて、和歌子は振り上げたままになっていたシャベルを思いっきり振り下ろそうとした。
「止せ!」
 突如千秋でもない和歌子でもない第三者の声が飛び込んできた。
 殺意に心を支配されていた和歌子でさえもさすがに驚いたのか、振り下ろそうとした腕の動きをぴたりと止めてしまった。そして声のした方向へと振り向く。
 降りしきる雨にうたれながら、両手で木製のバットを構えている
磐田猛(男子二番)が立っていた。

【残り 四十二人】

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