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 無邪気な少女は野を駆けずり回った。どこまでも続く緑の平原に、高まる気持ちを押さえられず足が勝手に動き出す。Tシャツに短パンというラフな服装に加え、まるで少年の如く短く刈られた頭を見ては、それはまるで本当に男の子のようにすら見える。
 元格闘家の母と、現在もその業界で活躍中の父の間に生を受けた彼女は、小さな頃から男勝りな性格であった。そのためだろうか、どうやら彼女は自分と同じ女の子達と遊んでいるときよりも、野心に溢れた男の子達と遊んでいるときの方が楽しんでいるように見えた。今も彼女の周りを囲んでいる子は男ばかりである。
 少女の外見も性格も男に近かったこともあってか、それを囲む少年達も、なんら違和感なく彼女を仲間として認めていたようだ。そうして出来たこのグループは、一見するとまさに男ばかりの集団であった。
 彼女を見守る強き両親にとって、外で飛び回る男の子達と共に、こうやって元気に遊んでいる娘の姿を見ることは喜ばしい事であった。両親が娘に対して想っていた願い、それは誰よりも強い子に育って欲しいということだったからだ。幼少の頃から外で元気に走り回っていた娘が、日に日に成長していく姿を見ることは何よりも嬉しかった。だから両親は彼女をそのまま男の子達と一緒に遊ばせていた。
 しかしそれは良い事ばかりではなかったと、後に思い知らされる事となった。成長するにつれて、だんだんと強き存在へと近づいていく我が娘。父はそれにたいそう至福を感じていたようだったが、母は喜んでばかりはいられなかった。外見も性格も、そして口調までもがだんだんと男性化していく娘の姿を見ることは、母という立場から見てあまり良い気分ではなかったのだ。
 長年男の子達と共に過ごせば、それが生活の全てに影響してくる事などは最初から分かりきっていた。しかしそれが次々と具現化していくたびに、母は娘の将来が少しずつ心配にすら思えてきたのだ。
 友人たちと遊んでいる際、何かの拍子で「ぶっ殺すよ」等の言葉が我が娘の口から発せられる事がある。冗談交じりとはいえ、笑いながらこんな言葉を友人たちに言う娘の姿を見て、母はそれに嫌悪感を感じ始めた。
 こんな育て方で本当に良かったのだろうか?
 母はこんな事を考えるようにまでなってきていた。もちろん娘が強い女の子に育って欲しいという気持ちは変わらない。自分もかつては格闘家であったからか。しかし自分は格闘家である前に一児の母なのだ。母が我が子に望む第一は当然、その子が幸せに生きると言う事。果たして、彼女はこのまま成長して本当に幸せになれるのだろうか。
 娘が強くなって欲しいという希望の為か、自分は母親としては盲目になっていたのかもしれないと、あるときから自分を責めるようにまでなっていた。そして彼女は少しずつ、娘の教育の路線を変更し始めた。
「ダメよ忍。殺すとかそういうことを軽はずみに言っちゃ」
 母は娘に知って欲しかった。人間の命というものは、あなたがそう簡単に死ねと言って良いほど軽いものではないのだと。
「なんで?」
 首をかしげる娘はあまり分かっていないようだ。当たり前だろう。彼女はまだ10歳にも満たない無邪気な存在なのだから。
「いい、忍。人間は皆一見したら、ただの一塊の小さな存在にしか見えないのかもしれない。けどね、皆それぞれ内に大いなる大切なものを秘めているの。何年も何十年もの時を経て、積もり積もった経験や思い出。さらには将来に向けられた夢や希望。そんな凄い宝物を一人一人が抱えて生活しているの。じゃあ、もしその人が死じゃったら、それはどうなっちゃうと思う?」
 母は自分で言いながら、まだ幼い娘は分かってくれないだろうなと思った。するとやはり目の前の彼女は難しそうな顔をしている。
「死んじゃったらね、そんな大きな宝物も、みんな一瞬にして消えちゃうのよ。経験も、思い出も、夢も、希望も、すべてがこの世界から存在しなくなってしまうの。それはもう二度と現世に姿を現すことは無いの。じゃあもし、それを現世から消し去ってしまったのがあなただとしたらどうなると思う?」
 娘はもはや話に着いてきていないだろう。しかし母はこれを言い切らずにいられなかった。
「もし、あなたが他人の宝物を消してしまえば、あなたは重い手枷足枷となったそれを背負って生きていかなければならない。もちろん死ぬまで永遠に。その重さは半端なもんじゃないわよ。何処に逃げようと耐えようと、いつまでものしかかってくるそれは、きっとあなたを押しつぶすわ。命とはそれほど大きな物なの。だからあなたがそれを消し去るような発言なんかしちゃ絶対に駄目。分かった?」
 母は言いたい事を全て言い切った。しかし娘は眉を眉間に寄せ「分からない」と言うのみ。幼い彼女にはまだ難しすぎたようだ。
 まあいいか……いつかこの子も分かってくれるだろう……。

 耳を劈くようなサイレンが近距離から頭に入ってくる。自分が横たわるベッドは常に揺れ続け、はっきり言って寝心地は相当悪い。
 今はどのあたりを走っているのだろう。
 ふとそんな考えが頭をよぎった。自分は今瀕死の状態であるのに、なんて緊張感が無いのだろう。
 頭を横に向けて見ると……ああ、そうだ。側にあの子がいたんだ。
 彼女の瞳に映る一人の少女。まだ男の子らしさは消えてはいないが、少し髪を伸ばしたせいか、誰が見てももう女の子であると分かるまでになっていた。それは母が彼女の教育方針を変更した成果の現れだった。父は娘を男の子のように育てたいと譲らず、当の彼女本人も伸びてきた髪にうっとおしいと思っていたようだが、母がそれらの異議を跳ね除け、なんとかここまで達する事が出来たのだ。そしてようやく女の子らしくなってきた少女は、変わり果てた母の姿を見て涙をこぼしている。
 交通事故。娘と二人でバイクに乗っていたことが災いした。走行中も話し掛けてくる娘の相手をしているうちに、彼女は気付かぬ内に対向車線へとはみ出していたのだ。間違いなく自らに非があった。当然の如く対向車は自分達に向かってくる。相手側も思いも寄らぬ事態に対応しきれなかったのだろう。その後は想像するまでも無い。次の瞬間に母子は宙を舞っていた。そして地面に叩き付けられる。
 時速六十キロ以上のスピード同士が衝突したのだ。その破壊力は恐ろしく、母の身体は粉々に砕かれた。
 幸いしたのは娘はガードレール側の茂みの上に落ちたため、さほどの重症は負わなかったということ。それを聞いた時は自分の身体はもう駄目だと思いながらも安心した。
 その後誰かが救急車を呼んでくれたらしく、二人はすぐさま現場から連れさられた。そして今に至る。
 もう駄目だろうな……。
 自らの死は覚悟していた。しかし母にはまだ心残りがあった。隣で涙を流しながら、じっと自分の姿を凝視している幼き娘。
「お母さん……」
 か細い声が、異世界へと旅立ってしまいそうな母の意識を繋ぎとめていた。
 私が死んでしまったら、この子はいったいどうなってしまうのか。ちゃんと女の子として生きてくれるのだろうか……。ちゃんと幸せになってくれるのだろうか……。
「死んじゃヤダよぉ……」
 娘が突然手を握ってきた。まだまだ小さな手。しかしこの小さな存在でしかない彼女自身、今後何者にも劣らぬ可能性を秘めているのだと考えると、彼女はなぜか笑みを漏らしてしまった。
「忍……聞いて……」
 母が呟く小さな声に、彼女は真剣な面持ちで反応した。そして次の言葉を待つように、じっと手を握り締めたまま微動だにしない。
「……お母さんは……もう駄目だから……だから、あなたに今のうちに言っておきたい事があるの……」
「……なに……?」
 か細い声。娘も悲しみに耐えているのだ。
「……私は、あなたに幸せになって欲しかったの……。服も女の子らしく可愛いのをいっぱい着せてあげたかった……。美味しいものをもっと食べさせてあげたかった……。色んな話をもっとしてあげたかった……。もっとあなたと一緒に笑っていたかった……。もっとあなたを抱いていたかった……。もっとあなたと一緒にいたかった……でも、お母さんもう駄目みたい……。もう身体の何処も動かせないの……だから、話だけでも聞いてちょうだい」
 話しているうちに、母は涙でベッドを濡らしていた。娘の前では絶対に強い母の姿でいようと昔から決めていた彼女にとって、初めて娘に見せた涙であった。
 母の思いが伝わったのか、娘は小さな身体を震わせながら、ただ頭を上下に振り頷き続けている。
「分かったよ……分かったから死んじゃヤダよぉ。お母さん……」
「私は本当に幸せ者だった……。だってあなたのような素晴らしい娘を授かる事が出来たんだから……。忍、あなたも将来幸せになりなさい。お勉強もきちんとして……小学校を卒業したら中学校に入学して……そこでまた新しい友達を作って……時々でいいから女の子らしくオシャレもして……それから本気で誰かを好きになって……それから子供を産んで……ああ駄目! まだまだ言いたい事はいっぱいあるのに……もう……」
「わぁぁぁぁぁ! 駄目だよお母さん! 死んじゃ駄目だよぉぉぉぉ!」
 母の最期はもう目の前に迫っていた。心なしか娘の傍らに付き添っている医師も諦めの表情を浮かべている気がする。しかし娘はそれでも母の意識を呼び戻そうと、必死に痛烈に叫び続けた。
「最後に…やっぱりこれだけは言わせてちょうだい……忍……強くなりなさい……」
 娘の手の中で小さく震えていた母の手から力が抜けたかと思うと、母はふっと目を閉じてしまった。幼き娘もそれが何を意味するか分かっていた。しかし、そこで止まることはできなかった。
「もう言わないから! もう二度と殺すとか言わないから! だから……だから帰ってきてよぉ! お母さぁぁぁぁぁぁん!」


「ブ・ッ・殺・す」
 須王のあまりに慈悲無き言動に怒り、忍は過去に封印したはずの「殺す」という言葉を知らぬ間に口にしていた。鎖でがんじがらめにされていた過去の封印が解けてしまうほど、彼が発した言葉は彼女にとって許せるものではなかったのだ。
 幼き頃に母を亡くした彼女は、死というものがどれほど重大なことか知っていた。だから彼女は軽はずみな発言で「殺す」などと言ってはならぬと思っていた。しかし目の前に立ちはだかる男は、自分とは命に対し全くの正反対の考えを抱いている。それがまた許せなかった。
 母は言った。強くなりなさいと。あれから数年の時が経た今、彼女は強く、そして正しく成長した。正義を貫く強き女。まさに母の思い描いていた娘の姿がここにあった。そしてその結晶とも言うべき存在である彼女は、正義を貫こうとするが如く、悪に染まった強大な敵に向かって走り出していた。そして次の瞬間には、彼女が振り下ろした木材が怒りの鉄槌の如く、男の脳天を砕かんばかりに叩きつけていた。


【残り 8人】




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